「いじめられる側にも問題がある」という人がいます。
空気が読めない人、発達が遅い子ども、何か周りと違う特徴を持つ人、それは、その人を排除していい理由になるのでしょうか?
それは、その人が社会生活の中で克服していかねばならないその人自身の課題です。他人がジャッジして審判を下す権利などないはずです。
また、新しい考え方、自分が正しいと思うやり方と違うやり方をする人を間違っている、協調性がないなど断罪する人がいます。
そんないつまでも旧態依然としたやり方をよしとしているところ、若者が一緒に何かをしたいと思うでしょうか。
いじめられないために、自分と違う考えのグループに所属し、そこで力のある人に従っていく生き方、それは、自分の人生を生きているといえるのでしょうか。
多様性を認め、他人の意見を受け止める柔軟性のある社会、いじめは「心の殺人」であるとし、決して許さない意志を持った社会、そんな社会の中で、安心して一人ひとりが自分の能力を発揮していけるのではないでしょうか?
言葉の暴力、態度の暴力、そんな形のない暴力もあります。
いじめられた側が訴えても、「そんなことしてない」「被害妄想」などとせせら笑われ、より心を傷つけられることがままあります。
そんな時に、次元の高い、いじめに断固として反対する社会ならば、間に立って「それはおかしい」という人がいるはずです。
いじめる側はたいてい強い立場にいます。だから、いじめられる側を守るには、「いじめは許さない」という思いを大多数の人が社会通念として持たなければいけないのです。
カナダである男子生徒がピンクのシャツを着て登校し、ホモセクシャルだと言われ数人の生徒に暴行されました。それを知った上級生が呼びかけ、翌日多くの生徒がピンクのシャツを着て登校しました。
この件をきっかけに世界中で、いじめに反対する「ピンクシャツデー」の運動が広まっています。
今、私たちに必要なのは、この上級生の存在です。
いじめというものはなくなりません、
他の多くの犯罪と同じように。だからこそ、「いじめは犯罪だ」という社会通念、大多数の人の共通認識が必要なのです。
今月は街頭で「いじめをなくそう」と訴えてきました。